[今日のリサゼイトピック】  当たり前の無知  

ずばり外国語がわからないということは、耳が聞こえない事と同じだ。

私はアフリカ人の言葉がどれをとってもわからない。アフリカ語(ここではアフリカ人の話すどの言葉も指すことにする)の会話を私の環境で聞いたことがない。

台湾人と一緒に暮らしていた時は彼女らの言葉が次第に理解でき少々話せるようにもなった。彼女らが帰国した後今なお理解することは出来る。

フィジアンと仕事を一緒にしていた時は彼らの表情からもくみ取ってなんとなく仕事の内容ならば理解は出来る。「今日の晩御飯なに?」という感じのなんてない日常会話は苦しいが。

ある日耳の不自由なお客さんとその息子が来店した。私は普通に声をかけたが、彼は私の顔を見てきょとんとしていた。私は自分の発音が悪かったのかと思ってもう1度試みた。すかさず息子が「父は耳が悪いんで聞こえにくいんですよ」と教えてくれた。その父親の反応は日本人が外交人に話しかけられた時の顔と同じだった。

耳の悪い母親を持っていた私は、彼女がこちらに来た時もこちらの友人が話しかけた時に耳を指して”ごめんね、耳が悪いのよ”と言っていたけれど、それは”英語が理解できない”と一緒の現象だった。

私はその時よく思った。”ああ、耳が聞こえないのと、言葉がわからないは一緒の現象だ”と。

大切なのは、聞いてるものの顔つきである。言葉がわからなくても、言葉が聞こえなくても聞こうとする姿勢があれば相手に伝わる。そのお客さんも母もおなじ姿勢だった。彼らは自分の持つ環境を知っている。何が待ち受けているのかもわかっている。

私達は自分の身の回りの人達が皆話せて、聞こえてが当たり前だと思っている。その不自由な人たちに不意に出会ったときに躊躇する。何不自由ない体で生きてきたものは時に無知である。

私達は当たり前があると無知になる。無能にもなる。

私はアフリカ人に話しかけられたら一瞬キョトンとするだろう。私がもし何も態度に表さなければ私は無能だろう。

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