【小説 サチの中の自分】  2.過去の清算 第一章 「存在」

―目次―

第一章 「存在」

1. 日本のあるところで

私 西村かなこは京都市内の病院で生まれた。午後3:08 3900kg、53.5cm 健康で何問題なく無事に誕生した。父 会社員35歳、母 公務員30歳 兄7歳 姉2歳の末っ子として。彼らは私がこの世に来る前から存在していた唯一血のつながった身内、家族。

昔私はよく下の子が欲しいと思っていたが、今は全くいらない。というよりも1人っこが1番いいと思うときもある。でも何かあった時は1人よりも上がいた方がよいだとか、姉と兄が反対だったら良かったのにだとか、まあ色々思っていたものである。

「生きる」っていうことは一体何なのだろう?この世の中は一体何なのだろう?深く考えれば考えるほど訳の分からない問題である。そしてこれは決して世界中の存在するもの全てにわからない事である。科学的でもなく化学的でもなく専門的でもなくとにかく何にも傾けられない問題なのである。

私はどういう意味を持って生まれてきたのか解らない。私はなぜ生まれてきたのか、この世に生まれてよかったのか、なぜこの家族のもとに生まれてきたのだろうか、人はみんな希望もなく生まれてくる。それは運命というものによって、家族の種類が違い環境が違う。それは誰も選べない。

今、現在受験が終わって半年が経っているが、今私はこの世界でしたい事が山程あり、行きたい所も、会いたい人も。自分の希望の為にやらなくてはいけない事も、やりたくないのにやらなくてはいけない事も、人にやってあげたい事も、たくさんたくさんある。そしてそれらをやることが面倒くさいけれど、楽しくやっている。それはイコール今は生きていることが充実していないけれど生きててよかったことなんだと思う。

 

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2. 家

親戚は自分の家族を含めて両親の各兄弟の子供とその子供まで含めて約40名くらいである。18年間ではっきりいって誰が誰なのか分からなかったが、祖母の死がきっかけでほとんどの関係がわかってきた。

小さい頃は遠かったけれどもスキーをしたり、泊まったりした。色々な意味でこういうことも昔は子供の私には見えなかったことが多かったせいか私は私で平和だった。

私の家は別に有名人の居る家族でもなかったし大してすごく極貧乏でもなかったけどどちらかというと貧乏の方だった。小学校2年ぐらいの時に母は働き詰めだ。今は誰1人子供の中では働いていない。私の望みは兄の自立だ。

これから半年。最近父が会社を勝手に辞めて自営業を始めた。繁盛はしていないらしい。一応朝出かけて夜に返ってくるが実際何をしているのか私は知らない。

母は相変わらず働き詰めだが課が変わって今は前より仕事の少ない場所へ移動したけれどもえらいさんがいる所なので聞かうが多く、接待も多く、母向きではないのだがまあ何とかやっているようだ。

兄も相変わらずで家にいるか、バイトにいくか、遊びに行くかの生活である。姉は一応受験生なのだが家事のほぼ全体的にこなし合間に勉強したり犬の散歩に行ったりしている。

父方の親戚とはあまり気が合わないが、1年に一度法事で会うことになっている。地方のせいもあって全然遊びに行かないし誘いも受けないし、といった冷めた関係である。これは父がちゃんとしっかり働いていないというのに原因があると最近気づいたのである。

母方の親戚とは全員京都人ということもあって、まあ一緒に旅行とまではいかないが、私の家に来たり、行ったり、私が1人で会いに行ったりしている。たまに祖母のことで叔母と電話でしゃべったりしている。

という具合に1996年夏が今来ている。

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3. 学校

小学校から、いや保育園から全て国公立で共学だった。もともと小学校も中学校も高校も大学も全て自分が住んでいる地域にあったのでたまたまが共学で国公立で。性格上バスや電車に乗って遠くの学校へ行くのは馬鹿らしいと思っていたし、大学はまだわからないが行こうとしているところも近くの国公立だった。

学校って色んな事が起きる場所である。良い事もばかりでなく悪いこともたくさんある。

半年前に高校を卒業して以来学校という場所に1回も行ってないけど、たまに学校っていいなぁ、としみじみ思うことがある。友達もいて先生もいて色んな人の風景があって、いいなぁと思う。めっきり今では中学校にも小学校にも1歩も足を入れていないが今度ゆっくり改めて自分が確立した時にでも歩いてみたいと思う。

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4. 友達

友達は小さい頃から多い方だった。そりゃあもちろん喧嘩もしたし、悪口も言い合ったし、ある程度の人間なら経験することを私も同じようにしてきた。

保育園なんて何も考えずに自然に友達が出来たものである。そして普通に保育園児を過ごしてきた。

小学校。児童館に2年通って他の学校の友達が出来た。そのころは便せん集めが流行っていた。交換し合ったり、あげたりもらったり。児童館の机を組み立てて部屋を作ったり、あと一輪車をみんなで必死で乗れるまで練習したり。男の子のいじめっこも数人いた。私のグループもその標的だった。3年生ぐらいからスポーツ教室に通ったこともあって、クラス以外にも仲間が増えた。中学年はローラースケートや芸能人のプロマイドを集めたり、布やキルトでちょこちょこと何か作ったりしていた。高学年になるとゴム飛び、スケボーなどが流行っていた。年を増してくると人間関係も色々で、仲間外れ・しかと・悪口。6年もいれば本当に色んな事があったが余りつらい思いをした記憶はない。させていたことはあったかもしれない……..

又 手紙を回したり交換日記をしたりもしていた。小学6年生の時、本当は嫌われていた女の子がいた。彼女はいつもみんなに嫌われていたが強い人だったのでへこたれはしなかった。

今でも縁のある友達が1人いる。彼女が結果的に小学校時代の親友である。

一番人生の中で変動の激しかった時期、それが思い出深き中学校時代である。色んな友達と付き合った。真面目であろうと皆から嫌われている人物であろうと不良であろうと。私は5人グループの1人だった。男の子関係、家族事情などなんでも話せる中だった。その中で私は自分が相談するというより相談される方が圧倒的に多かった。彼女たちだけでなく学年のほとんどと言っていい程本当に多かった。顔つきのせいか身長のせいか?

私の答えはいつもきつかった。ハッキリしていて、普通同じ年の子がそんな考え方しないだろう的な所があったので気持ちが固めやすいといわれたりした。その積み重ねが、私の弱音を人に見せまいと強い人間に(見えるように)なっていったのかもしれない。

私のその5人グループは途中で4人になり、そのうち私も含め3人は同じクラブだった。そして受験シーズンがさらに本格的になるとその4人の鎖が緩んでいってしまった。

中学校に入って”男の子と付き合う”ことがイケてる年齢になって、私も人生で初めて中2の時にきっちり告白されたことがあった。今でもしっかり覚えているのは、夏休み前日の、しかも私が明日からアメリカに2週間行くという前日だった。ただ5か月くらいしか続かなかったけど……..遊ぶ男の子もそれぞれつきあっている相手も同じグループだったので大体男女その辺がいつも一緒に遊んでいた。四条に行ったり、映画を見に行ったり、買い物に行ったり。今から思えば子供だったけれど一番幸せな時期だったのかもしれない。そして中3のクラスが生涯一最高のクラスだったし、担任の先生も唯一の教師だったのは確かである。

ドラマや漫画の様な友達を期待した高校時代はあまり大したことはなかった。友達はたくさんいたが親友はいなかった。母校だけに限らず、男女も問わず、年齢も関係なく、いろいろいたが1人も親友と呼べる人はいなかった。それに近い人は何人か出来そうだったけれどどれも期待外れだった。でもまさかという人が友達になったり、長い間付き合って悪いところが少しづつ見えていった人や様々。

高校卒業後、予備校にいかなかった私はその今の友達はなかったのでよくバスや電車で1人で乗っていたりすると「あぁ友達が今一緒だったら今こんな話するのになぁ」とか思ったりする。

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5. 頭脳

中学までは上の方で別に勉強しなくてもできる範囲の小学校は何1つ苦労した覚えはない。いつも成績は75%~95%であった。それは特に上の方でもない至って平均。中学校でも別に一生懸命勉強した覚えはない。遊んでいても授業を聴いてなくても試験前にあせればそれなりの点は取れたものである。授業中にヘアセットして教師は叱りもしなかったその英語のレベルだけはずば抜けていつも100点ばかりだった。

勉強することは嫌いじゃないけど別にそんな苦しんでまでいつも最高点を取ろうだなんて、私にとってはそんな面白くない生活はしたくなかった。たまに怪しかった時もあったけど。

でもそれが通じないのが高校生である。やらなかった分だけ悪い成績として表れる。赤点もあれば落第という文字もあり、予習・復習をすればするほど結果は良かったものである。でも私はとりわけ勉強を一生懸命せず、かといって遊んでいたわけでもなく、いつも適当に赤点を取らない所までの努力しかしていなかった。だから必要最低限のことしかしてなかったので特に損も得もしていない。

というのも1つは、私自身日本の高校教育のある方を信じていない所があるからだと思う。大学入試だけが目的の英語、将来生きていくうえで全く必要のない数学、漢文、化学の1部の分野、人間の作ったものを生徒がごく時に評価・考察・感覚に対して点数をつける国語。

同じ学年の男の子で東大に受かった人がいた。なんで彼はいい点数獲れたんだろう、同じ授業しか受けてないのに。

生徒それぞれ必要な専門分野を選んで取れるようにしないとわざわざ7限目を作ったり土曜に登校させたりしなくても時間はたっぷりあるのに。

だから私は無駄な努力はしていない。さて私の頭脳レベルは結局、それ程優れているわけでもなく、劣っているわけでもなく一般的に普通の頭ということである。

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6. 習い事

私の人生が狂ってしまった1番の原因はなんといってもこれである。良い風に狂ったのか悪い風に狂ったのか、今は悪い方の%が大きい。

児童館に居た頃は習い事は出来なかったけどそのころの同級生は主に公文・習字などをしていた。小学校3年生になって何から始めたのかはもう忘れたけれど、近所の友達や学校の友達、姉の影響で少しずつ習い事の体験が増えていった気がする。例えば、水泳、剣道、ピアノ、合唱団など。剣道は6段位までやっていたが飽きたので辞め、水泳は一応15級から1級、最上の選手コースまでいって、次第に嫌になって1級に戻ってしばらくやって段々嫌になってはじめの体操に行かなくなり、練習に行かなくなり、水着はたまに洗面所で濡らし、いかに行って来たように親に見せ、結局中学生に入ってすぐに辞めた。これは結構辞めるのが大変だったがなんとか辞めさせてもらえた。でも水泳で自分の学校以外の友達が出来たので楽しかった。合唱団は友達に誘われてふと入った。そのころは単に音楽的なことは考えずに「みんなのうた」や童謡、合唱曲を楽しんでうたっていた程度で、名古屋などの地方にも行って、発表会もあったし、友達とのいざこざもあったけどいい思い出もあった。

学校の友達の習い事はしょっちゅう変わっていたが私の場合母親の教育上「自分でやると決めたことは最後まで続けなさい」ということだったので今ではそういった経験が責任感の強い自分を作ったのだと思う。

こうして変わっていった私の習い事の歴史も高校に入れば音楽一色になり、合唱団の先生の中の1人の所に倣うようになって歌だけがピアノも加わり「エリーゼの為に」が弾けるまで続けようと決め、それが意外にも直に弾け、その先生が遠くに引っ越すことになり「いい声を持ってるから続けた方がいい」という言葉にうかれ、結局徐々に本格的になり大学受験は音楽でというところまで来てしまったのである。遠くとも電車やバスに乗り1人で通ったものだった。

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7. 進路・受験 ー人生最大の屈辱ー

保育園、小学校、中学校とずっと国公立で自然に上がって来たが、塾も行ってなかった私がちゃんと国公立の高校に行けるかは心底本当に心配だった。

適当に家の中で勉強して、必死で勉強した覚えがなかったから。そして1校しか受けてなかったので落ちれば高校浪人というドキドキで発表を見に行った。人生初めての合格発表である。自分の名前が合格の中にあった時はほんとうに感激したものである。

1996年3月、長年私を苦しめていたものの解除は大学に受からなかったので決して出来ない問題だった。言葉では言い表せない、自分でも自分が支配できない程に達していた。ある1人の教師のおかげで私はこの日最大の屈辱を味わうことになる。

そもそもこの時複数の教師に教わっていた私はそのうちの1人の教え方では判らない、自分が発展しないとこの教師ミツイに伝えたところは、彼女は何を勘違いしたのか「私が落ちたのはこの教師のせいだ」と当事者の教師に伝え、それを私の兄に伝え、母に伝わった。私が信頼して打ち明けた言葉の内容が家族に違う風に伝わってて、結果むごいことになったのである。私はその後もこの教師ミツイと付き合っていくことになったが決して許してはいない、今でも決して、これからも許すとはいえないだろう。たとえ彼女が偉い名誉教授であろうと。

「心配している」「私は自分1人のものじゃない」「頑張ろう」だとか言われてもその時の私はそのたびに苦しめられていった。一層のこと何も言わずに無視してほしい、1人であるしちゃんとやっていける自信もある。所詮大人も周りのみんなも何もわかろうとしてくれないし、世間の風は冷たいだの、壁は分厚いだの。外面だけを気にして中身を全然見ようとしない偽善者たちばかりである。私の知らないところで私は見下されていた。もう大人にはそれが家族で会っても師匠であっても決して、もう一生、心は開かないと固く心に誓った。その決心で少し体の中が軽くなった。そして私はもう1度同じ大学を受けなおそうと思った。

今度は大人の言葉を鵜呑みにせず、私は1人でやっていくというのも誓った。でないとまた私はボロボロにされズタズタになるから。自殺しようとも思ったし大学に行かなくてもいいと思っていたから一層のこと家族を捨て、師匠を捨て、日本を出てそこか私のことを知らない土地へ、人の所へ行って1人で生きていこうとも考えた。今度は出来るだけ誰にも甘えず、お金のことも勉強のことも自分1人でやってみよう、もう頼れるのも信じれるのも自分しかいない。

終わったら落ち着いて自分が何をしてきたのか、冷静に考えることが出来る。今は、考えても考えてもきりがないし、いいこともないけど。

 

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8. 外国 ー初めての渡航ー

いつ頃からか外国に興味をもち、英語に興味を持ち始め、小学校高学年にもその気持ちは大きく大きくなっていった。中学校1年の時、同じクラス・クラブの友達ゆかりちゃんの紹介で、小さな英会話学校へと行くことになりそこで生まれて初めて外国人と話した。そこからますます私の海外に対する興味がわいていき、中2の夏 生まれて初めて外国に行くことが出来たのである。

1991年7月21日~8月3日1週間のキャンプと1週間のホームステー。何もかも新しくてどんな荷物で何を持っていったら便利だとか周りにも経験者がいなかったので全て勘で一緒にいくゆかりちゃんと決めたりしていた。あれこれ悩んであっという間に1か月、2か月と過ぎていった。当日は大坂空港に昼の12時に待ち合わだった。それからちょっと雑用をしてようやくフライトで大阪を飛び立った。まず東京の成田空港によってからでそこからアメリカ・シアトルへは約8時間。ほとんど眠らず隣のゆかりちゃんとそわそわしながらついてしまった。ついにあの憧れのアメリカである。

着くとまず違う匂い、私が生涯嗅いだことの無い匂いだった。悪い匂いではなかった。”アメリカの匂い”だった。

タコマ空港についてまず現地に住んでいる日本人お方にキャンプ場へのバス停まで車で送ってもらった。車の中から見る景色は信じられなかった。私が今アメリカにいるだなんて本当にうそみたいだった。

キャンプ場では色んな体験が出来た。HORSE RIDINGや、ショットガン、水泳、ゲームなど。ごはんもおいしかったし夜は毎日違うイベントがあって下品なゲームもあったけどすべて楽しかった。かっこいい男の人も探したりして友達になったり、キャンプ場では日本人は自分たちだけだったので、スタッフの人たちは常に気にしてくれていた。おかげで複数の友達が出来た。寝る所はログハウスだったので2段ベッドの下は私達3人で、上は先に来ていた地元の同じ年の子供達で、互いにみんな興味心深くいろんな話をした。あんなこんなでアッという間に1週間が過ぎてお別れの時が来てしまった。泣きはしなかったが今度いつ会えるかわからない寂しさでいっぱいだった。バスでそのまま船に乗って軽いお菓子を食べて着いたら日本人の人と一緒に昼ご飯を食べそこから今まで一緒だった私達3人は別々になってそれぞれのホームステイ先へと行った。私のホームステイ先には共働きの夫婦と私より2つ年上のMichellと同じ年のRichie,それからね頃犬が一匹ずつの家族だった。昼はほとんど外食だったので周りの景色をいろいろ見えたしうれしかった。それからMichellの彼の家に遊びに行ってトランポリンで彼の弟も含めて一緒に遊んだり、彼の家族とラズベリー狩りに行ったり、お母さんの仕事場へ行ったり、有名なシアトルタワーへお父さん、お母さん、Richieの4人で遊園地も含めて行ったり、そこで色々乗り過ぎて私1人酔ってしまったり(笑)、想像もしなかったことが次々と起こって本当に楽しかった、幸せだった。

帰る日の前日、シカゴピザを全員で食べに行ったり、きれいな滝を見に行ったりした。本当に幸せだった毎日がアッという間に過ぎてしまった。だけど帰るのが嫌ではなかった。ホームシックならぬフレンドシックになっていたからだ。

そうして私の人生初めての海外旅行は終わり無事に幕を閉じた。それからしばらくは海外に行きたいと思わなかったが、またしばらくすると元通り”海外行きたい病”がはじまり、またどこかへ行きたくて行きたくてたまらない毎日が続いた。高校に入ってからはそれが夢に変わっていたけど…。

18歳で高校も卒業した今、浪人生の私は海外に行く話は合っても全て断り、受験勉強に専念しようと誓ったので今は行きたいだの行こうだのと言ってられない。

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9. 出会い

さて、出会いとは言うまでもないが人と人が出会うことで、そこから2人の人間関係が動向となっていくのである。

もちろん相手は人間だけとは限らないが、会ったからと言ってべつに動向にならない人間同士もいる。そこから、友達、師弟、義家族、先輩後輩、同僚、上司部下、となるわけだ。そしてそこからいろいろな発展とて、恋人関係、因縁関係、時にはいい関係ばかりではなく、困惑関係、犬猿関係、恨怒関係、など様々である。最悪の場合では、容疑者・被害者関係である。これは法的には有罪ごとにならない時もある。

私の出会い。もちろん中には出会いたくない人も数人いる。それはやはりあまりその人ととの思い出がないことからではなかろうか・それは体罰とかいじめとかそういう見える形あるものではなくて精神的なものである。相手とのぎくしゃくがそのままここまで来たことや、和解はしたけど自然と進路が分かれてそのままで時は過ぎたことや…….。だからといって今更どうってことはないのだけど、ただ苦い思い出と化するのである。

私はまだ「この人こそ私の目標とする人だ」というような人にで会ったことがない。心から愛している事、信頼しても裏切られない事、人間として筋の通っている人、頭の良い人(勉強が出来るの意ではない)、しっかり働く人、自分という一個人をしっかり持っている人、人を傷つけない人、というのが最大の条件である。だから今まで出会っていないというのは、みな私を傷つけたからである。もちろんそれだけとは限らないが、これらの条件を1つでも欠けているからたくさんの人に会っても私にとっての偉大な人が現れないのである。

教師は特に生徒を傷つける。もちろん彼らはその事に気づいていないし、自分の教師像を作るのに必死で周りが見えていない。友達はよく人を裏切る。一個人を持っていない。日本人の家族が特に愛情が足りない。人を思いやること自体が欠けている。そういう自分も純日本人の両親の元で生まれ日本で19年間育った正真正銘の日本人なのだが、日本にいる限りこういう環境にいる限り無理である。私に似た日本人がいるから日本辞退無理である。

この話は正式な評論という形でいつか語ろう。

私はこれから新しい人間に出会っていろいろな関係になっていくことだろう。そして彼らによって幸せの気にもなれば嫌な思い鵜をするだろう。こればかりは運命として言いようのないことだ。

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10. 夢・憧れ

人一人、色んな夢や憧れを抱くものである。特に女性は何でも感でも抱いてしまい、大半が現実離れしている。わたしは特にひどい方で昔はよく勝手な想像をしていたものである。男のこと、家族、友達、芸能人などの歯には幅広く、夜の夢に出てきたりした。

小学校のころ、ちょっと不思議なことがあった。一つは、性格の悪いみんなからも嫌われている子がいて(まあどこの学校にも一人はいるが)、私はいつもこの子がいなければいいこのクラスは平和なのに、と思ったものである。そしたら、その子は違う学校に行ってしまった。それから似たようなシチュエーションで3人中よ買っていつも誰かが仲間はずれみたいになっていたので、私はこの2人のどっちかがどっかいけばと思っていたら、一人卒業してから引っ越していった。あと友達と2人で買い物に行ったときに私はふっと同じクラスの人がそこに来るような気がして友達に予感を話してあと10秒で来ると言ったら本当に同じクラスの男子が来たのである。犬が欲しい欲しいと思っていたら親戚からもらったり。テレビが欲しいと思っていれば買うことになったり、などなど偶然がかさなっただけかもしれないが、お願いをすると不思議に起こったのである。

さて、これらは小学校の時の話だが、中学校では欲が出たのかそんな偶然は起こらなかった。逆に願いはかなわないばかりだった。叶ったのは海外に行けたことと、付き合ったことぐらいである。

高校では、もう願いがどうとか気にしないようにしていたし特にこれといった長芋なかった。むしろ将来のことを考えるのに明け暮れていた。

大学に落ちてからは夢だとか憧れだとか言っている場合でもなかったし、想像したとしてもどこかの大学に入って4年を過ごしてからじゃないと進めない事だったので何も考えないようにした。だから、この賞も今はお預けなのである。

私の今いちばんの実現しなければいけない夢はまず4年制大学に入り4年無事に卒業することである。それから先のことは分からないが、海外にいって音楽関係の会社に就職するか、なんらかのボランティア団体の所属して海外の子供達の支援をしたり学習の手助けをしたり、あるいは海外の大学に入り音楽の勉強をより高いレベルを求めながらアルバイトするか、お気づきの通り”海外”でのことである。とにかく私は今すぐにでも海外に行って行動したいのである。しかし今海外へ行くと何もかも捨てないといけない。お金も多少送ってもらわない宇都やっていけないだろうし、一言で行く、といってもなかなか大変な事なのである。

いづれ私が海外でちゃんと一人でやって行けたなら、必ず両親に永遠に住んでもらう家を海外に立て、そこでのんびり暮らしてもらうことが私の最大かつ重要な夢なのである。そのためには、私の多大な努力と出世が物をいうことになるだろう。今から考えると大変しんどいだろうし、忙しい毎日で、それが私にとって充実していればいいのだが……..。

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11. 他の世界

19歳の私には、嫌いなものたちがいっぱいいる。例えば芸能人でいうとAN, HE, UY, KN, TR, NH, HA などが超嫌いである。もう大嫌いどころではない!気色悪いほど演技は下手!で歌は下手!でバラエティではあほまるだし!なんで芸能界にいるのか不思議なくらいである。このよから抹消したい!追放したい!やつらばかりである。そのほかもろもろに嫌いな奴らはいる。

―以下省略ー

こうした芸能人と言えば何の取柄もないくせに、ちょっと出ては普通の一般の倍はギャラをもらっている。そして、今のテレビと言えばそんな安売りタレントが、あkら桶屋クイズの番組であほほど自分らが盛り上がって半分以上テレビという本来の意味をも考えずにその辺で打ち上げしている一般人と変わらないのである。ドラマも絶対あり得ない夢ばかりを無話しに与え続け恋愛にしろありえない行動やせりふを行うものばかりである。トレンディという言葉に惑わされて楽して視聴率を取ろうとして結果盛り上がっているのは自分たちだけなのである。音楽もそうである。声の質はほとんど関係なくスタイルやルックス、顔、ついには自分で曲も作らず詩も書けず人に作ってもらって全くと言っていい程音楽を無視されているのである。

私はテレビも映画も好きなものはある。そして、感動も笑いもしてきたし憧れや夢も一般的にしてきたものである。しかし、人が多すぎるこの世の中汚いものが多すぎる。だから見るのも嫌になっている時もある。

まず映画のことを述べると私はアクション映画やエイリアンものは好ましくない。ありえないことに、いちいち心を向けてキャーだとか怖いだとか動かされるのが嫌だからである。恋愛ものもあまり好きではない。ラブシーンやベッドシーンばかり出てくる映画が大半だからである。他人のそういうシーンを見ても、それがたとえ有名女優でも美人女優でもちっとも面白くないからである。必要以上にそんなシーンばかりな海外映画や、そんなシーンも浅はかにみえるアジア映画、特に日本の映画は最悪である。

では何が私を魅了しているかというと、それはコメディである。前期に述べた恋愛ものもアクションものもすべてラブ・コメディだとか、アクション・コメディだとか書いてあれば別になる。だからそれが例えあり得ないストーリーでもとにかくコメディだとか書いてあればお構いなしである。普通のコメディ映画でも色んなシーンがあるからである。愛情・悲しみ・トラブル・そして笑い。だからコメディと言っても笑いばかりではないのである。涙もろい私も時には涙を流すこともあるのである。B型の私にとって気象変化の激しいコメディはもってこいなのだと思う。

TVでは推理物「PERRY MASON・古畑任三郎・コナン・探偵ポワロ・コロンボ」海外ドラマ「FULL HOUSEFULL HOUSE・ドゥギー・ビバリーヒルズ高校白書」海外物「海の向こうで暮らしてみれば・ペット紀行・世界の家・世界の車窓・ウルルン・さんまのからくりTV」その他「サザエさん・渡る世間」などである。とにかく自分の好きな国関係のばんぐみなら何でも見たいのである。

好きな芸能人・有名人は  ―以下省略ー

テレビっ子の私にとってはまるでテレビ評論家みたいに口うるさく毎日見ているからいちいちいう事なのだが、まあテレビに興味がない人にはどうでもいい話だが。

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12. スポーツ

体力には自信があった。小さい頃から出来ないスポーツはなかったし、与えられたものはすべて自然に出来るまで頑張ってやっていた。例えば、小学生の定番はドッチボール、一輪車、キックベースなどから始まり、次第にソフトボール、バレーボール、剣道、水泳、バドミントン、テニス、ハンドボール、卓球が主に経験のあるスポーツである。

そういえば、玉無し自転車は3歳半ばころにはもう乗れていたし、今考えればそのあたりからスポーツは得意だったのかもしれない。ソフトボールは地域の大会にちょっと出たりしてたまに楽しみの一つとしてやっていた。バレーボールは経験した中でも一番長い約7年間である。小学校のスポーツ教室で本当は4年からだが姉がやっていたのもあって、3年の半ばくらいからはもう始めていたので中学終わるまではやっていた。水泳は稽古事の一つで4年くらい。剣道も稽古事の一つで3年くらい。卓球は児童館時代に遊びでやっていた。他はすべて楽しみと体育の授業でやっていた。18年間最後のスポーツといえば、陸上である。なぜこのクラブに入ったのかは今でもよく分からない。でもちっとも後悔していないのでそんなこと気にならないだろう。体育の授業と言えば、一番楽しかったのがボーリングである。授業でするのは稀だそうだが、あとはゴルフの時間もあった。今の所私のスポーツ経験はこんなもんである。

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13. 性格

「性格」=「自分」悪く言えば、自分勝手、わがまま、邪魔くさがりである。我慢しない。気まま。忍耐強くない。凝りやすく飽きやすい。気が向けば紙一枚のずれも許されず、人の家へ行けば少しでも散らかった家は片づけたくなるし、かと思えば洗濯物はある程度溜まるまで放っておいたり、使わない机の上は毎日拭かずに誇りが見えだしたら拭くようにしたり、といった感じである。家の中はやりたい時にやりたい場所を徹底的に気が済むまで掃除したり、一週間以上も掃除をしなかったりと様々である。もし掃除してお金を出してくれる家庭ならきっときれいに出来るだろう。特に書類や原稿をたくさん使う場所であればうれしい。でもただ1つ欠点は、私がいかに気乗りしている時かで綺麗さはことなってしまうのでやっぱり商売は出来ない(笑)。

要するに典型的なB型人間である。でも私はこの性格が好きである。損も得もしないが、自分のやりたいことをやりたいようにやって人生を一番エンジョイ出来る型ではないかと思う。

自分のことは自分で一番よくわかって、自分が一番わからない。内面ははっきりしているが、外面はもやもやのままである。私はずっとこれからも、当たり前だが、一緒に自分と付き合っていかなければならない。今まで自分を死ぬほど嫌いだったこともある、こういう自分を好きだなと思ったり、それはどの人も同じだが……。

今現在がままである。好きでも嫌いでもない。でも状態は、把握している。いつも誰かが側にいるから何かあった時は誰かがしてくれるだろうという甘えがある、自分で決めたことをまあいいだろうと見逃すところがある。いけないとわかっていても何も誰も取り締まるものがないからといって、そういう状態に甘えている自分がいる。今はしたい事もできないから、押さえつけられた自分がいる。決めることは好きだが実行することは嫌である。だからいつもその決定が夢として終わることもある。

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14.趣味

 

趣味というのはいまいち何なのかよく解らないが、人は必ず自分のプロフィールなどを書くときに使うが、いったい私の趣味は何だろう。何でもして楽しいことは一鞍でもしたいものである。辞書で調べると”楽しみとして興味を持つ事柄”となっているが、正しく私にはたくさんあるような気がする。

例えば絵を描くこと。音楽を作ること。歌うこと。好きなアーティストの曲を聴いたり絵を鑑賞(観賞)したりその人の番組を見たりして触れる事。気が向いたときに料理を作ること。海外の言葉や作品、人間と関わること、特に英語で色んな人と話しあうこと、やっぱり人間と音楽に触れていることが一番の楽しみとして興味を持っている事柄なのだと思う。

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15. けが、病気

生れた時から健康そのものの体だった。思い病気もケガもしたことがない。だから今でも小さい時から薬や包帯が大好きである。だからちょっとでもけがをすると大げさに手当てをしたものだ。そして病院というとこれもまた大好きな場所である。不謹慎は十重に承知だ

はじめの大きなけがと言えば自転車から落ちたことである。保育園の行きしな私はいつも通り母親の自転車の後ろの備え付けの子供用の椅子に乗った。半寝だった(らしい)。私は医師がごつごつとしたコンクリートの上に頭ごと落ちてしまった。そしてそのまま保育園委は行かず病院に運ばれた。頭が割れていたらしい。そうして今になって私の頭がパッパラパーなのはそのせいだと家族にからかわれるのだった。

小学校1.2年のころは児童館の分厚い入り口の戸ではだしの足を思いっきり売って左足の親指の爪が全部はがれてしまった時も児童館の先生は焦って、私は内心うれしくて、お望み通り接骨医院へ行くことになった。結局爪がはがれていただけなのだが大層に包帯にまかれて児童館に戻っていった。

それからは注射の日も楽しみだったし、ほとんど大きな病気もしなかった。骨も折ったことがないし、熱も40度行ったことはないし、といった感じでごく普通の健康体である。

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16. 死

死にたいと思ったことは何度もある。それは小学校の頃からだったと思う。今問題になっている「いじめ」はまだ私の時代にはほとんど聞いたこともなく私もそんな強烈ないじめなどは受けたことがないのでそういう意味で死にたいと思ったのではない。

なぜそう思ったか?

やっぱりそれは何らかの形で自分自身が窮屈な箱の中に閉じ込められてしまった時であろう。原因は特に人であり、環境であり、時間であり、自分の生まれた時代であり、そしてどうしようもない自分だったりもする。死んでしまえばすべて無になる。そして、死の世界はどうなっているか誰も知らないけれどまた新しい人生を歩いて行けるのだと思う。なんて楽しいんだろう。明るいんだろう。死んだらもうこの世に居なくて済むしただちょっと瞬間の痛みを我慢すればそんな世界に行けるなんて。

でも私は死ななかった。今この「生きている世界」のことを考えたからだ。この「生きている世界には、なにがある?」そして「誰がいる?」そう考えたらら死ぬことなんて出来なくなった。

私はつくづく情けない。それでもこの世に居座っているんだから。

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17. 目標

1996年。この1年で誇れる自分を作る事。他人に「これどういうこと?」と聞かれても中身がややこしいから、自分にしかわからない事だから、話さないでおこう。

それから大人になることである。私は今までいろいろ子供過ぎた面を持っていた。そのため色々煩わし事も多かった。

大人になったらどういうことが生まれるかというと、まず言い訳は効かない事、ごまかしは効かない事、わがままは通せない事、なんとまあ私にとってつらい事ばかりである。本当にすべて私が我慢しなくてはならないことばかりである。でもこれが大人になる事なのである。

さて私の最終目標は、いや夢に近いが、「笑っていいとも」のテレフォンショッキングと「徹子の部屋」に出演することである。何も芸能人になるのではなく、一種のアーティストにでもなれればいいと思う。

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18. 第一章【存在】~終わりに~

将来女の子が生まれたら”かんな”とつけようと思っている。将来いつかなんかの機会があれば、例えばいつか本が出版出来たら、CDが出せたら、誰かの芸術系作品によれたら、自分の絵の展覧会を開けたら、という場合に使う為である。

しかし単に作品名だけに使う言葉ではないのである。ただもう一人もいてはいいのじゃないのかと思ったのである。なんとなくワクワクするものである。

長かった18年間が終わるのである。でもいったいこの作品をいつ発表できるのだろうか?私が何らかの有名人委なるか、何か多大なことで世の中に出るか、どちらにしても私が世間に”かんな”として知ってもらえるまで無理なことである。

もし最終的に世間に発表出来なくても、ちゃんとした本にして将来の下方にでもしてもらえたらと思う。将来子が出来、ひ孫が出来たら、そしてその子たちに兄弟がいるならば次女に捧げて行ってほしいと思う。

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次回 第二章【価値】へつづく

 

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